2013-06-17
エッセイ「西安交通大学留学の記」(1) 林 臣一
5~6年前頃から中国に留学したいという想いを持つようになりました。中国語を10年以上学んできて、授業中の老師の話が60~70%くらいしか聞き取れない、しかも肝心なところが聞き取れないというもどかしさをずっと感じていました。この状態を打破し騰飛(現在の状況から殻を突き破って、中国語がより聞き取れる状態に飛躍すること)するには、周りがすべて中国語という環境の中で生活する留学しかないと考えたわけです。
定年退職を機にその想いを実行に移しました。当初より留学の地は西安と決めていました。西安は北京、上海に比べ留学費が安いこと、昔の唐の都ということで名所旧跡が多いということがその理由です。
2012年9月3日からの授業開始に合わせ、8月28日に日本を出発しました。日本はまだ残暑が厳しく蒸し暑かったですが、西安は空気が乾燥しているせいか暑いのにカラっとしています。しかしなぜか街中が埃っぽい感じです。この状態は帰国するまで続き、晴れているのに真っ青な空を見たことがありませんでした。いつも白く濁っているか、もしくは灰色の空ばかりでした。この原因はよく分かりません。車の排気ガスと砂塵ではないかと思います。
車は7,8年前の自転車にとってかわり、道路はいつも車で溢れていました。政府もこんなに急に車が増えるとは思っていなかったとみえて、駐車場の設備が全く整っていません。だから歩道を歩いていても横から急に車が乗り上げてくるので驚嘆します。道路上は駐車禁止ですが、歩道に駐車するのはOKなのです。
砂塵については日本人留学生がセーターをバスタブで洗濯したところ、水を抜くとバスタブに砂が溜まっていたという話を聞いたことがあります。
8月31日にはクラス分けテストがありました。9月からの新留学生が1時間のペーパーテストと10分程度の会話のテストを受けました。クラスは1~4班まであり1班は入門クラスで発音から始めます。2班は初級、3班は中級、4班は上級という具合に分かれています。
私はテストの結果4班ということになりました。4班は全員で24名です。留学生は世界中から集まって来ています。私のクラスはモンゴル、イタリア、カザフスタン、ソマリア、ポーランドから各1名、アメリカ、タイから各2名、ドイツから3名、日本人は4名、残りは全て韓国人です。60歳以上の年寄は私1人で、クラスメイトは20~26歳の学生か大学卒業2~3年目の若い人達です。
授業は月曜日から金曜日まで、午前中の8時から12時までで1時間ごとに10分間の休み時間があり毎日2科目あります。午後と土、日曜日は授業がありません。授業科目は口語、読写、聴力、閲読、写作の5科目です。全ての科目で宿題が毎日出され、また予習をしないと授業が面白くないので、午後は宿題、夜は予習にあてていました。
西安交通大学には3ヶ月以上の長期留学をしている日本人は18名いました。その内半数は60歳以上の方々で、中国の老師も日本人の年寄の学習意欲に驚いている様子でした。
土、日曜日は授業がないので、大学の北門の真向かいにある興慶宮公園や城壁内の街に遊びに行きました。興慶宮公園には阿倍仲麻呂の記念碑があります。この公園も御多分に洩れず休日の午前中はエアロビクス風のダンス、ジョギング、散歩、太極拳、池の水を使っての習字、コーラス等の人達で賑わっています。
また、この公園の北門を出たところに休日の朝だけ市が立ちます。小型トラックで果物、野菜を運び込み荷台を店にして商売しています。その他、肉、魚、衣服、点心等も売っており、いつも多くの人で混み合っています。
大学は四方を塀で囲まれており、東、東南、南、北の4つの門しか出入りはできません。この塀の内に約2万人の学生が寮生活を送っています。朝の通学時、課間の教室移動時、午前の授業終了時に食堂に向かう学生達を見ていると、民族大移動という感じがします。
ほとんどの学生が眼鏡をかけています。これは勉強熱心ということもありますが、部屋の照明が暗いということもその理由です。
私は日本語学科の2年生の学生と相互学習をしていましたが、彼らは大学を出ても就職が難しいということを自覚しており、良い会社に就職するには学校の成績次第というところがあるので、皆、普段から勉強に対する意欲はもの凄いものがあります。また大学卒業後の目標を聞いてみると、皆1人1人自分の目標や夢を持っており、それに向かって一生懸命努力しているという感じです。
次回へ続く
エッセイ「中国千鳥足紀行 その2」
2013-06-17
エッセイ「中国千鳥足紀行 その2」 横田盛幸
さらに雪は細かくなりましたが、我々の四輪駆動車は高速道路を相変わらず50~60キロのスピードで、トラックをはじめ他の車を外側から追い抜いて行きます。日本のように速度の遅い車は外側というルール(日本でも例外でスピードの遅い車がセンター寄りを走行しますので中国でも普通かなと思います)よりも、外側にもセンター寄りにも動かない乗用車が停まったままで、ハザードを点滅している車は、ほとんど見かけません。窓の外はますます雪の量が多くなり、本格的な積雪になりました。Oさん一家は全員まっすぐ前を見つめたままです。私は助手席で「ステキな雪景色だなあ、まるで水墨画の景色のようだ」などとノーテンキな気分でしたが、突然Oさんが
「横田さん、高速道路をこのまま行けばあと30分ほどで村に着きますけど、雪で高速は危ないから降りますよ」と説明がありました。まもなく高速道路を出て、一般道路に入りました。しばらくして街中に入りましたが、人はほとんど歩いておらず、車は大渋滞です。Oさん達は皆と中国語でおしゃべりをしていました。「横田さん、1時間以上かかります。家には5時過ぎになるかな」とのことでした。
渋滞の先には何かがあると日本でも言われますが、やはり車2台の追突事故でした。事故現場の目前で、警官に道路の脇道に誘導されました。雪の中、たった2名の交通整理、お疲れ様と思いました。しかし、彼らも仏頂面でした。内心、大雪と春節直前だから機嫌が悪いのだと解釈することにしました。
さらに市街地を進むと、電動オートバイにカッパをすっぽり被った人を見かけました。日本では上下のセットが主流ですが、中国は本人とオートバイ全体を覆うタイプです。一見大変合理的に見えましたが、雪の中をふらふらと危なっかしい状態でした。
しばらく進むと峠道になり、乗り捨ての車が上り下りとも、センターライン寄りも外側も関係なく置き去りになっていました。その中を四輪駆動車のオーナーは、右に左にとハンドルを切りながら峠に向かって進んで行きました。そこに、香港の「面包汽車」(マイクロバス)より大きな50人乗りほどのバスが来ました。動けなくなったセダンからネギなどの入った買い物で重たくなったレジ袋を持った30歳くらいの女性が急に飛び出してきて、あっという間にバスに乗っていってしまいました。心の中で「乗り捨てた車はどうすんの?」と思いました。
それにしても、反対側の上り坂では、ビニール傘をさしてトボトボと道の真ん中を歩く人や、雪の降る中を3人で一生懸命車を押す人達が見られました。しばらくして平坦な道になりOさんが「横田さん、もうすぐ家に着きます」と。
外は溜池が多く見られ、家も多くなりました。
Oさんが後部座席から「横田さん、左の崖がみえるでしょう」
私はなにげなく「うん、見えるね」と答えると、Oさんから
「あの崖の所で村の人々が日本軍に殺されたのですよ」
と言われ、一瞬言葉が見つからず、その崖の所を車窓からしばらくじっと見つめておりました。
ようやく自分の口から
「申し訳ない、すまないね」この言葉しか出ない自分でした。
あと30分ほどでOさんの実家に到着します。こんな小さな村まで日本軍は何をしに来たのでしょうか?
次回へ続く